嘆きの歌





人と肌を合わせるという事が、こんなにも心を落ち着かせるのだという事を、ボロミアはここに来て初めて知った。
肌を合わせることで心までが近づいていくような気がする。幾万の言葉を重ね合うよりも、相手の存在を鮮明に感じる。
それでも、こんなにも間近にその存在を感じていても、未だに自分はこの相手のことを理解できていない。どうしても、その心が掴めないのだ。
ボロミアにとって、アラゴルンは旅の仲間というだけではない。本来ならば自分の主となるべき存在。 執政家の嫡子として強大な権力とそれ以上の重責を背負った自分と同じ立場、唯一対等な…いや、それ以上の相手。 お互いを理解し、補い合って支えていくべき存在だというのに何故こんなにも理解出来ないのか。
その性格、人となり、判断力、戦士としての技量…知れば知るほど惹かれていく自分と、惹かれるほどに理解できなくなっていく相手の存在に、日毎に混乱が増してくる。

「アラゴルン、もう眠られたか?」

どうしても相手を理解したくて、自分を理解して欲しくて、隣で身じろぎもせずに横たわっている相手に声をかけた。

「…いや、星を見ていた」

静かな声には、何処か夢から覚めたような遠い響きが含まれている。
その声に促されるように天空を見上げ、その神秘的な輝きを見るとボロミアは静かに呟いた。

「ああ、確かに美しいな」

素直にそう感じる。
何千、何万光年を経てようやく届く星々の光。その輝きの一つ一つに、その星の命の歴史があるのだ。

「この星達の中には、わたくしたちが生まれてくるよりもはるか昔に消えてしまった星の光もあるのでしょうな」

人の時間では計れない程の遠い昔。消えてしまった名も知らない星達。永遠とも思える日々の果てにようやく届く命の残像。
余りにも遠く離れてしまうと、どんな思いも届くまでに時間がかかってしまう。 自分の気持ちを理解させるのもアラゴルンの気持ちを理解するのも、本当は時が必要なのかも知れない。だがそれでも…と思わずにはいられないのだ。

「…あなたの口からそんな言葉が聞けるとは思わなかったな」

アラゴルンはゆっくりと身体を起すと、いつもと違った穏やかな口調で呟いた。

「この世界の事にしか興味が無いのだと思っていた」

ボロミアは正直にそう告げたアラゴルンを一瞬だけ視界に入れ、ほんの僅か微笑むとすぐに天上に視線を戻した。

「まあ、そう思われても致し方ないでしょう。実際、ミナスティリスに居る時にそう感じた事はありませんでしたからな」

「…とは?」

ボロミアがミナスティリス以外でそんな事を考えている余裕があるとは思えなかった。 元来、今回のような事でもなければ彼がゴンドールを離れる事などありえないのだから。 だからこそ、この返答が腑に落ちなかったのだが、次の言葉を聞くと納得できた。

「わたくしがそう思うのは戦場に立った時だけです」

ミナスティリスと戦場…おそらく彼は旅に出るまでこの二つしか知らなかったのだろう。 そしてそれ以外は必要としていなかった。
必要とする余裕も無かった。
今、遠い目をして星々を見ている彼はその戦場に思いを馳せているのだろう。声の響きが抑揚を欠き、独り言のようになってきている。

「繰り返される侵攻。夜通し続くオークの攻撃。不利な戦況。恵みをもたらしてくれるアノールの光は遠く、夜明け前に奴等が撤退を始めても 少しでも有利な時間に戦いを持ち込むべく疲労を押し切って進まなければならない。休みを取れるのは昼間から夕刻まで。 倒れた者達を弔ってやる余裕もなく、傷を癒す薬草も、兵を満足させるだけの糧食も不足している。そしてまた夜には戦が始まる…」

淡々と語られるのは絶望的と言ってもいいような状況。
人一倍感情豊かな男がこれほどの状況を激する事も無く静かに語れるのは半分以上物思いに浸り、独り言であるかのように語っている今の状況に加えて、 その光景が余りにも頻繁に…日常的とも言えるほどに幾度も繰り返されてきたからだろう。
ボロミアの内側には本人も気付いていない絶望が存在している。まるでそれが当然であるかのように。彼が祖国を愛する心と同じように…彼の一部となって。
それに思い至ってアラゴルンは戦慄した。

「ですがそんな時に…戦いの最中であるというのに、ふとした静寂が訪れる瞬間があるのです。何故かは分からないのですが、ほんの一瞬だけ。 その一瞬に見える星々の輝きが、今はもう存在しないかもしれないその星の命の光が……美しいと、そう思えるのです」

自分らしくないとは思うのですが…と続けるボロミアの表情はどこまでも穏やかだった。 そこには絶望も希望も見えず、どこか不思議そうな…幼子のように無防備な瞳があるだけ。
ボロミアはその無防備なままの瞳をゆっくりとアラゴルンに向け、貴方は…と続ける。

「貴方には分かるだろうか?還るべき場所を失った思い出達の嘆きが。過去の記憶でしかない命達の哀しみの歌が。それでも、その光を美しいと感じてしまうわたくしの心が…」

その言葉はアラゴルンに咽喉元に剣を突きつけられたかのような衝撃を与えた。本来ならば自分が受け止めなければならない絶望。自分が責任を負わなくてはならない破滅と死の光景。 その全てを余りにも真っ直ぐに受け取ってしまい、当然あるべきものとして認識してしまっているボロミアの心の見えない弱み。
人を愛しいと思い、彼らの痛みを真摯に受け止め、知らぬ間に深く傷ついているその精神。
指輪は見逃さないだろう。彼の純粋さに、国を民を愛する心そのものにつけこむだろう。
自分が運命を避けている限り。

「……ボロ…ミア」

「聞こえるだろうか?この星々の嘆きが、哀しみが」

「ボロミア」

「我らが民の声と同じ響きを持った、この歌が…」

「やめろ!ボロミア!!」

強い口調で遮ったアラゴルンがそれ以上言うな、と言いたげに視線を反らすのを見て、ああ、と溜息のように呟いた。

「少々、話が過ぎましたな」

ボロミアはゆっくりと身を起こすと、そっとアラゴルンの髪に手を触れた。

「わたくしはただ、自分の感じた事を伝えたかっただけなのですが、どうもこういった事に関しては口下手のようで上手く伝る事ができないのです」

「そうじゃない…」

「貴方が天上に見ていたものを知りたいとも思ったのですが…話す気を無くさせてしまったようですな」

「そうではないんだ、ボロミア…」

俯いたまま目を合わせようとしないアラゴルンの頬に手を添えて僅かに上を向かせると、静かに口付ける。

「相手を理解するには肌を合わせるのが一番だと聞いたことがあります。本当かどうかは分かりませんが、わたくしはあながち間違ってもいないと思う」

「あなたは…それで私を理解できると思うのか?」

「できればいい と思います」

そう言って真っ直ぐ自分を見つめてくるボロミアの視線を、アラゴルンは黙って受け止めた。

「では、試してみるとしようか」

僅かな沈黙の後にそう呟くと、再びどちらからともなく唇を重ねた。



燃え上がっていく身体とは裏腹に心はどこまでも静かなままだった。触れる指先も、合わせられる唇も、相手に自分の考えを伝えてくれているはず。 お互いの気持ちが、痛いほど伝わってきているはず。
それなのに分かり合えない。
相手の心を受け入れるには自分の思いが強すぎて、自分の思いを押し付けるには相手の心が傷つき過ぎていて…
こんなにも大切に思っているのに、こんなにも分かり合いたいと思っているのに、どうして擦れ違ってしまうのだろう。
何故こんな風に傷口を広げあうような事になってしまうのか…
本来なら互いの半身たるべき相手だというのに。

せめてこの身が一時の安らぎを与えられればいい。 我が身の温もりが幸福だった僅かな時を思い出させてくれればいいと思いながら、深く身を重ねる。
穏やかな眠りが訪れるように、何もかもを忘れる程、互いに溺れてしまえるようにと…



この夜が明ければ再び戦いが待っている。永く、果てしない戦いを続けていかねばならないのだ。
何時か全てから開放されるその日まで。






◇ end ◇



これ不完全ですね。
どう考えてもアラゴルン視点の追加ページが必要だな…
その内こっそり追加&手直ししておきます(汗)




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