親子関係の行動術
(現実)型の親と(直感)型の子どもの場合、親がES(外向・現実)型で子どもがIN(内向,直感)型になると、ジレンマがひどくなる。

子どもは心のなかで考えたり描いたりして型の想像力を働かせるが、それを行動に表わす気はほとんどない。

ES型の親は行動や結果を重視するタイプだ。
IN型の子どもが「新しいことを」学問として勉強するために大学へ行きたいという。すると、ES型の親はこんなふうに答えがちだ。

「おまえにとって有利に働かないものに学費を払うつもりはない」

要するに、いい職業につくための進学でないなら反対だ、ということなのだ。このときの双方のフラストレーションを想像してみるとよい。

逆に親が型で子どもが型のとき、親が漠然とした一般論で対応するので、特定の答えを求める子どもの要求を満たしてやれない。

古いジョークがある。子どもが親に「ぼくはどこからきたの」と聞くと、型の親はコウノトリのたとえ話をはじめる,すると子どもがこう答える。
「へえ、おもしろかったけど、でもメアリーはシカゴからきて、ビリーはバッファローからきたんだって。それで、ぼくはどこからきたの?」

親子がなにごとにもこんなふうに食い違うのでは、とても笑ってはいられない。

いつも特定の答えや方向を求めるのに、あいまいな一般論しか返ってこないとなると、子どもは、実世界で生きていくのに親はなんの手助けにもならないと感じるようになる。

型の子どもは「ちっともわかってない」と感じながら育つことが多い。

これを解決するには、
「この答えでよかったのかしら?」とか、
「わたしのいってることがわかったかな?」とか、
「おまえがいっているのは、こういうこと・・・・?」と聞き直して、
コミュニケーション,ギャップをなくし、親子が理解しあうしかない。

行動に表わす

型の親には、こうすると決めた方向があるが、型の子どもは、その方向を空想の世外にはばたく踏み切り台にしたがる。

たとえば、親が「部屋を片づけなさい」というときは、まさに部屋を片づけるだけのことなのだが、型の子どもは、片づけようと思って最初に手にしたものがきっかけとなって、遊んでしまう。

あとで親が、もうだいぶ片づいただろうと思って部屋をのぞくと、何も変わっていなかったり、それどころか新しい遊びで前よりも雑然としてしまっている。

こんな場合、親は子どもの型のところをのみこんで、「本は本棚に、おもちやは箱に片づけなさい」
というように、気が散る恐れの少ない、もっと特定した言い方をするほうがよい。

そもそも「部屋を片づける」のが型の子どもにふさわしいことなのかどうかを考えたほうがよい。
散らかっていても、子どもにとってはそれぞれに意味があるのかもしれないのだ。

型が「汚い部屋」だと思っても、型には「ずらりと並んだ魅惑的な可能性」かもしれない。

ところで、これはなにも親子に限ったものではない。

一般的に、型は型よりも物を捨てるのが得意だ。

型にとっては、それぞれの物が、いかに無用に見えても、さまざまな思い出やアイデアにつながる引き金になるので、「いつか役に立つかもしれない」と、とっておく価値があるのだ。

型は「何年も使ってないから、もういらない」という。

型には、捨てたあとで、とっておけばよかったと思うときがくるのが「わかっている」のである。

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対処のしかたが違う相手